我々は変態について真剣に考えたことがあるのか?

 

チン〇チン丸出しで新宿歌舞伎町を走ることが変態であろうか??

それとも、
褌一丁でキンタ〇マ丸出しで、

夜中の中野区の駅前でうろうろ歩くことが変態であろうか?
どちらも実際やったが、

そんなことを私は言いたいのではない!
特別という言葉が恒常的に使用されることにより、
特別という言葉の特別性を欠いてしまうのと同様、
変態という言葉も常用されることによって、
変態と呼称される人間が一般的な人間を指す言葉となった昨今。
あえて真なる変態論をここで論じたい。

 
時代と共に言葉の意味も変わっていき、

変態という言葉も流され変わっていく。

 
変態はどこで生まれ、
どこに往くのであろう。
そして私達はどんな変態を目指せば良いのであろうか?
もはやニーチェが

「神は死んだ」と叫んだように、

果たして「変態は死んだ」のであろうか?

 
否!

 

変態はここに居る!

超人の如く輝ける変態は生き残っている!

 

私は声を大にして言いたい。
真の変態とは、
「モラトリアムを脱するためにひたすら真理を追求する意思と行動の現れのこと」

であると。

 

 

例えば脱糞マニアがいたとしよう。

 

そのままではソシュールの一般言語論的には、

 

社会に共有される言語上の約束事の変態である。

 
しかし、彼が幼き頃、

父親にうんこをお漏らしして怒られたことがトラウマとなり、

それ以後、

人前に出る自信がなくなったのを乗り越えようとする脱糞なら、

それは真の変態である。

 

自分の探求心、追求心、

芸術性を究極にまで高めようとする意思と行動こそが真の変態。

 

青臭いと思われるかもしれない。

 

実際に脱糞は臭いし、

子供はうんちが大好きだ。
うんちという言葉を連呼し、

喜ぶ大人は大人になり切れない大人でもある。

 
しかし、

我々は人間というものを外側からしか観察することができない。

 
変態の本質とは、

自己と他者の存在を認識することから始まる。
他人を自分の内側に存在し、

心の概念を形成することが大人の第一歩。

 
自己意識が

「他者」

との関係性によって成り立っていない状態では、

年齢を重ねても大人とはいえない。

 

たとえ世間との感覚がズレようとも、

自分の目指す方向性をありのままを表現する求道者。
それも真の変態である。

 

そこに本質の追求する精神があるか、否か、なのが問題であり、

チンチンや脱糞が問題なのではない。

 

さらに己自身の幼児性と過去のトラウマから決別し、

大人への階段を昇ろうとする儀式(プレイ)
それらを総じて私は「変態」と論じたいのであーる!

 
ここで変態に関して、
専門家より推薦文を頂きました!

 

日刊変態新聞 

 

編集長 健太郎氏より』

 

浅はかな変態が蔓延っている昨今。
非常に由々しき事態であります。

 

しかし、ここに真の変態論を論じます松井真一郎先生は、
治療家の中で、いや、
全国の変態の中でも日本一変態に詳しい

”真の変態”でしょう。

 

世間の考えに迎合せず、
自分が認め信じたものをひたすらに追求する姿勢こそ、

変態の鏡であり、
こ れこそが変態のあるべき姿なのではないでしょうか。
松井真一郎先生の益々のご活躍を期待しております。

 

以上!

忍押!(すお!)